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コラム

酒田湊の繁栄を支えた、豪商の台所

2020.10.13

時は江戸時代。この日のお品書きは、平目の刺身、里芋と蛸の煮物、なめこと豆腐の汁、奈良漬、ごはん、そして鯛の浜焼きと、本膳料理(一汁三菜)を基本とした「饗応食」で、客人へのご馳走の様子です。ここは酒田市の「旧鐙屋(きゅうあぶみや)」。酒田湊の隆盛の一翼を担い、廻船問屋として名を馳せた大米問屋の暮らしを今に見ることができます。

鐙屋惣左衛門

その名、知らざるはなし

「酒田は北方の良港として海内に鳴り響き、船舶の出入するもの頓(とみ)に増加し、問屋の数四、五十軒の多きに達し ―中略― 何れも盛大なりしが、就中、鐙屋惣左衛門を以て巨擘(きょはく)となす」(酒田港史)。

江戸を中心に町人文化が花開いた元禄時代、商人や職人らがまちの文化を担い、酒田では廻船問屋を営む「酒田三十六人衆」らが町政を司っていました。鐙屋の主人、鐙屋惣左衛門はその三十六人衆の筆頭格。代々続く米問屋に生まれ、江戸時代の初めから廻船問屋として活躍、領主の最上義光によって「鐙屋」の屋号を与えられました。

酒田の廻船問屋は

“海の商社”兼もてなしの船宿

「廻船問屋」とはそもそもどんな職業かといえば、寄港した商船の積み荷を取り扱い、船主と荷主を仲介する業者のこと。酒田の廻船問屋はその商いの場を提供して蔵敷料や商談成立の手数料などを得るだけでなく、宿泊の場も提供して収入源としていました。鐙屋は米沢藩や戸沢藩などの蔵宿も務めていたことから、米や紅花などと共に西廻り航路に乗って、上方までその名を広めたといいます。

「旧鐙屋」はその商店と住居が一体となった建物で、湊町、商人のまち酒田を思わせる歴史的建造物。弘化2年の“甘鯛火事”で焼失しましたが、特徴的な「石置杉皮葺屋根」や町家づくりの様式が復元・整備され、昔と変わらない場所に残されています。

建物の中に入るとすぐ目にとまるのが、屋敷の奥まで筒抜けになった土間。「通り庭(とおりにわ)」といわれるこの土間をかつては人や馬が通り、裏の土蔵に荷物を運び入れていました。

この造りは、屋外の街路から土蔵までをスムーズにつないだ動線となっているだけでなく、酒田の風土の特徴である強風や地吹雪から品物を守る機能も備えています。鐙屋ではこの通路に大きな酒瓶を置いて、通る人たちに酒をふるまっていたという史実も伝えられています。

鐙屋の繁盛ぶりは、井原西鶴が貞享5年(1688)に著した“経済小説”『日本永代蔵』巻二にも、町人らのサクセスストーリーの一つとして描かれています。

「爰(ここ)に坂田の町に、鐙屋といへる大問屋住けるが、昔は纔(わず)かなる人宿せしに、其身才覚にて、近年次第に家栄へ、諸国の客を引き請け、北の国一番の米の買入、惣左衛門といふをしらざるはなし。表口三十間裏行六十五間を、家蔵に立つづけ、台所の有様、目を覚しける」

酒田市立光丘文庫所蔵

栄華を極めた豪商の台所は、朝夕と活気にあふれていた様子。飯炊き釜はハシゴをかけて上り下りするほど大ぶりで、なますを作るのに鍬を使ったなど、どれほどの客人が訪れていたのか想像することができます。現在の台所は発掘調査などを経て江戸末期の姿に再現され、往時の佇まいをとどめています。

なつかしく、新しい

酒田のモニュメント

湊酒田の遺構である「旧鐙屋」は、そして酒田商人の気風を未来へと伝える存在として、この2020年10月から約5~6年をかけて耐震化などの大規模改修が行われます。面影は昔のままに、酒田の歴史を語るまちなかのモニュメントとして、またお目見えする日が楽しみです。

国指定史跡「旧鐙屋」

※現在休館中 ~令和7年3月(予定)

酒田市中町1-14-20