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コラム

漁業史に名を残す ニシン長者のお宅拝見

2021.11.16

日本の漁業史の語り草となっている、江戸時代から明治時代に隆盛を極めた北海道の「ニシン漁」。

当時、一大産業へと発展したその只中に、庄内浜育ちの一人の漁夫がいました。

別天地で一旗揚げ、故郷に錦を飾った青山留吉。その本邸が地元に現存し、公開されています。

ⓒ遊佐町教育委員会

 

一獲千金を夢見た

“ニシン100万石時代”

最盛期には北海道で年間100万トン近くも水揚げされたというニシン。「鯡」魚に非(あら)ずの当て字があるように、松前藩では年貢の代わりに納めていた貴重な財源でした。

 

「春告魚」と呼ばれるニシンは、3月頃になると産卵のために大群で押し寄せ、産卵と放精で海が白く濁る「群来(くき)」という現象が見られたそう。漁期には、青森や秋田、山形などから「やん衆」といわれる出稼ぎの季節労働者がやってきて、獲ったニシンの農作物の肥料にするニシン粕に加工され、食用としては身欠きニシン、干し数の子などが北前船で西方へ運ばれていたといいます。

 

数日の漁で1年間暮らせるほどの利益を生み出したその漁場で、まさに巨万の富を築いた人物こそ、遊佐町出身の青山留吉です。

 

 

庄内浜から蝦夷の地へ

大海原に漕ぎだした青年

留吉は、天保7(1836)年に羽後国飽海郡青塚村の漁家に6人兄弟の末っ子として生まれました。つましい暮らしの中で両親の仕事を手伝いながら漁師としての腕を磨き、安政6(1859)年、志を立てて蝦夷地へと一人出航します。

ⓒ遊佐町教育委員会

ⓒ遊佐町教育委員会

昔の遊佐町青塚での漁の様子

 

留吉が行き着いたのは後志国高津郡祝津村(現小樽市祝津)の港。地元の漁師のもとでニシン漁を学び、1年後には小さな漁場を借りて刺し網漁を営みます。少しでも魚を獲ろうと怒涛の海にも出漁し、冬は山仕事に従事して“下積み”の時代を過ごしました。

 

江戸から明治に変わる頃、留吉は200坪の漁場を所有します。当時は「漁場持制」といって、沿岸に所有する土地に面して漁場を確保することができました。その後1300坪の土地を譲り受け、「建網(たてあみ)」による定置網漁を始めます。この漁法は沖合に建網を張り、網1ヵ統(1組)あたり20人ほどで行うというもの。その人手である「やん衆」たちは漁期が終わると故郷に帰っていきますが、留吉は彼らを年間で雇い、農地を与えて、閑散期も自給自足ができる環境を整えました。そうして長期で雇用することで出漁経験を重ねて腕を上げ、結果、多くの水揚げにつながったというわけです。

ⓒ遊佐町教育委員会

留吉が拠点とした小樽市祝津の港。

 

その後も留吉はますます経営を拡大し、やがて小樽の「三代網元」に数えられるまでに。明治30年頃には漁場15箇所、漁船130隻、使用人300人を有する一大漁業家となりました。

時運をつかみ財を成した留吉は、明治41(1908)年、事業を子孫に譲り73歳で帰郷します。村税の大半を請け負い、大地主としての責を果たして、大正5(1916)年4月、庄内浜の春の訪れと共に81歳でその生涯を閉じました。その後、北海道のニシン漁は衰退、留吉は順風満帆の人生を生きたともいえますが、装備も漁具もない人力の時代にどれほどの労苦があったかは想像に難くありません。

ⓒ遊佐町教育委員会

青山留吉、70歳頃の写真

 

50余年の漁師生活を経て

余生を過ごしたニシン御殿

留吉は晩年を故郷で過ごすことを決めていたのかどうか、孫息子が周到に計画を進め、明治23(1890)年に生家を新築しています。

ではここからは、一般公開されている「旧青山本邸」拝見です。

3カ所ある入り口のうち、ここはお客様を招き入れた玄関。

ケヤキの一枚戸をはじめ邸内のほとんどが春慶塗で、130年を過ぎても美しい光沢が映えます。

玄関の床下収納や浴室、台所などには強度のある梨材が使われています。

当時、梨材は流通量が少なく貴重だったそう。

庄内の多くの民家では、仏壇の上に神棚をまつっています。この地域ならではの宗教観です。

茶の間の囲炉裏には、北海道の海岸で見られる瑪瑙(めのう)が敷き詰められています。

中庭に面した帳場。田畑・山林約250町歩を有していた大地主の青山家は、

土地の貸し付けも行っていました。

明治から幕末にかけて発達した「庄内箪笥」は、全国的に見てもデザイン性と技術に優れたもの。

この茶箪笥はケヤキ材で、「帆」を象った金具に遊び心を感じます。

麻の葉文様の組子など、光を表情豊かに通す欄間。

上座敷をはじめ調度品がいたるところに。

離れ座敷は留吉夫婦の寝室。天井にいくつも下げられた折り鶴は「ハエどまり」といわれ、

天井板にハエが止まって汚れるのを防ぐためのもの。日本人の美意識と知恵が生きています。

留吉晩年の肖像は、画家・池田亀五郎の作。

2人は親交があり、有名な「鮭」の絵も展示されています。

当主用のお風呂。座敷など周りが煤で汚れるためここでは炭を焚かず、

使用人がお勝手からお湯を運んでいたそう。

模様付きのすりガラスも当時のまま。

女中さんのお部屋にかけられた鐘は呼び鈴の役割。

使用人が自分の食器をしまっていた「箱膳」。食器にはヤマジュウの屋号が見えます。

ふたは裏返してお盆に、箱はテーブルとして使っていました。

広い台所には昔のお道具がずらり。中にはアイスクリーム製造機も。

床下の保存庫にはもみ殻を敷き詰めて野菜を保存していました。

台所を見上げるとむき出しの梁がめぐらされています。建築家の方いわく堅牢な構造とのこと。

明治39年に築堤された「神庭」。巨岩信仰に由来する枯山水回遊式庭園で、自然の風景を表現しています。中心にある「守護石」をはじめとする庭石は、鳥海山麓から3カ月をかけて運ばれたそう。

珍しい備前焼の灯篭。他にも出雲石の石灯籠など贅を尽くした庭園も青山家の繁栄の象徴です。

 

明治時代の日本家屋の特徴的な建築様式を残し、国の重要文化財にも指定されている旧青山本邸。

彼の地の大海原で大成した青山留吉が余生を過ごした邸宅は、今は凪のように穏やかな時間が流れています。

 

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国指定重要文化財 旧青山家住宅

「旧青山本邸」

山形県飽海郡遊佐町比子字青塚155

【開館時間】

4/1~11/30 9:30~16:30(入館は16:00まで)

12/1~3/31 10:00~16:00(入館は15:30まで)

【休館日】

月曜日(祝日の場合は翌日)、12/29~1/3

【入館料】

一般 400円

高大学生 300円

小中学生 200円

※20名以上団体割引あり

Tel.0234-72-5892