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コラム

現代に残る磯釣り勝負の証し

2021.01.01

「秋一日、安倍兄弟の誘ひに依て加茂へ釣にゆく。かしこにては宅右衛門といへる者方に一宿す。翌日も釣に出て、夜に入って帰る」

これは、庄内藩士・豊原多助重軌(とよはらたすけしげみち)が享保元年(1716)に記した「流年録」の一部です。

江戸幕府の確立以降、庄内藩は、藩士らの尚武の気性が薄れていくのを憂えて、心身の鍛錬や武道の一助とするために磯釣りを奨励していました。

「庄内浜磯釣りの図」鶴岡市郷土資料館所蔵

いつから始まったかは定かでありませんが、この豊原の享保元年(1716)の日記が、庄内藩の磯釣りの最も古い記録とされています。

鶴岡の城下町から日本海まで、釣り道具を担ぎ、夜明け前に出発して山道を往復する。さらに、海でアタリをじっくりと待つ。当時の大きい魚といえば1m以上もあったとされることから、技だけでなく気力体力も必要だったことがうかがえます。釣り中に荒天のため波に打ち落とされてしまった藩士が、「不覚悟」として減俸を命じられたこともあったそう。

こうした命懸けの修練から、藩士の間では、釣りの獲物を「勝負」と呼んでいました。その勝負の証しとして、釣魚の魚拓がしばしば作られていたようです。

「磯釣所の巻」致道博物館所蔵

庄内では、至る所で魚拓を見ることができます。

鶴岡市立資料館には、日本最古といわれる魚拓「錦糸堀の鮒」が保存されています。この鮒は、天保10年(1840)に江戸錦糸堀で庄内藩主が釣ったものだといわれています。

「錦糸堀の鮒」鶴岡市郷土資料館所蔵

致道博物館では、磯釣りで使用された「庄内竿」や、その他の釣り道具、魚拓にまつわる資料を展示しています。

同館では、黎明期の考古・民俗研究内容や、近年の発掘資料、稀少な民俗資料などを展示する企画展「創立70周年記念【庄内の考古・民俗】庄内探究モノがたり」を開催予定(令和2年12月19日~令和3年2月14日まで)。この冬、庄内ゆかりの伝統文化に触れてみませんか。

参考:日本民具学会編『竹と民具』雄山閣