失われつつある「飛島のいか塩辛」「いかの魚醬」
酒田港より北西に約39キロに飛島はある。周囲約12㎞、面積は約2.7k㎡の小さな島である。飛島と本土の一番近い場所は、遊佐町にある三崎公園からで約28㎞。山形県と秋田県の県境である北緯39度10分の線上では、秋田県側に位置している。江戸時代には、秋田県南の豪族仁賀保氏の領有地で「羽後飛島」と呼ばれていた。
かつての島の産業は、「いか」や「飛魚」を主力とした漁業で、最盛期は1,800人近くいた島民は、令和4年8月末現在、わずか175人となっている。
島の食文化は「飛島のいか塩辛」と「いかの魚醬」を抜きには語れない。
飛島はかつて「いかが寄ってくる」とまで言われた「いかの好漁場」であった。たくさんとれた「いか」をどう保存するか困っていた島民に、北前船の船員が、石川ではこのような加工をして「いしる」を作ってるが、これが参考にならないかとヒントをさずけたと言われている。
北前船の時代、当時の航海は、船は帆まかせ、帆は風任せであった。船が酒田に寄港する際に、天気日和を待つ港として、飛島は重要な位置にあった。現在の定期船「とびしま」であっても、年間を通じた運航率は7、8割。荒天が続くことも多い冬期間(12~2月)は5割を下回る年もある。
また、本土と距離的にはそう異なっていない新潟県の粟島には、魚醬文化はないという。北前船の潮待ち港として船員が知恵を授け、また「いか」という食の資源が豊富にあったのため「飛島のいか塩辛」「いかの魚醬」は生まれた。
「飛島のいかの魚醬」の塩分濃度は24~25%、最終製品の塩辛でも14~17%と、減塩のご時世でなくとも、かなり衝撃的な塩辛で、通常は大根おろしを和えて食べる。また、「いかの魚醬」は石川のいしるや秋田のしよっつる同様、薄めて「鍋つゆ」として重宝されてきた。
ただ、残念なことだが、令和2年あたりから「飛島のいか塩辛」「いかの魚醬」ともに製造はほんの一握りになってしまっている。理由は、いかが獲れなくなってきたことと製造する方の高齢化である。「いかの魚醬」を作るには、大量の「いかの肝」が必要で、最低1年以上じっくり熟成させる必要があるという。さらに、「いかの魚醬」は3年ほど保存すると味が良くなると言われている。これに別に塩漬けしておいたイカを細く切って漬け込むと伝統的な「飛島のいか塩辛」が完成する。
あるときは自然と戦い、あるときは自然と共存しながら暮らしを立ててきた飛島には、江戸時代の頃から、米飯確保のため「物々交換の文化」があった。そのひとつとして、「飛島のいか塩辛」は、交換の資として塩辛づくりが個別に始められ、各家庭秘伝の味が生まれた。
1980年代半ば頃より「飛島のいか塩辛」は、島の特産品にするため、低塩化、規格の統一化等に取り組んできた。容器として、かつては使用済みのビール瓶を利用していたが、ビールメーカーから二次使用はやめてほしいということで、ビール瓶の使用をやめ、デザインも新たにした。また、2004年3月まで放映されていたテレビ朝日系列の「ニュースステーション」や当時の新聞にも取り上げられたこともある。
こうして、300年余り続いている「飛島のいか塩辛」「いかの魚醬」ではあるが、こうして味の統一化等はなされたものの、各家庭の味が守られてきたという歴史もあり、島の特産品として製品化するには、様々な課題があった。
この「飛島のいか塩辛」「いかの魚醬」は、誰しも気軽に作れるものではない。ただ、ご年配の方と現在飛島に住んでいる若者が、一緒に作ったことがあるという話なので、全く途絶えてしまった訳ではない。
「飛島のいか塩辛」「いかの魚醬」だけではなく、飛島に伝わる郷土料理は、シンプルで素材の個性を活かした料理が多い。年々、海外から新しい味がどんどん入りこみ、複雑な味・新しい味が好まれ、食は今なお進化している。その一方、ウクライナ・ロシアを含む世界情勢が不安定であり、すべてのものが高騰している。このような中、地産地消・旬のものを見つめ直し、魚食を含む「地域の食を、地域で守っていく」意識を、再度確認していきたいものである。
参考文献:
魚醬文化フォーラムin酒田 編集 石谷孝佑
飛島 うつりかわる自然 本間又右衛門 著
日本海の孤島 飛島 粕谷昭二