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コラム

庄内浜の歴史と食文化を支えてきた「アバ」ちゃん

2023.12.01

 皆さん「アバ」と言う言葉を一度は聞いた事があると思いますが、庄内浜の歴史を語るには欠かせない人達の事です。現代の言葉に言いかえるとアバとは行商人の事を表します。
 アバの歴史は古く、藩政時代にさかのぼります。1844年上肴町と下肴町にアバと言われる振れ売りをする女性が36名おり、それがアバの始まりとして伝えられています。その頃は魚屋の需要は年々増加していましたが、豊漁不漁の浮き沈みのある漁師は年貢を納める為いつも借金に追われて、生活は苦労の連続であった様子です。しかしその当時の漁師は鮮度のいい魚を振れ売りと称して販売エリアを拡大していった様子です。この頃から浜のアバの発祥へと繋がっていきました。この頃「食べないではいられない」と魚を売り歩いた人々のパワーが広がり始めました。庄内浜のアバの数が一気に増えたのは、食べ物が不足した終戦後からです。

 庄内浜のアバちゃんになった動機は様々あるが、家族が食べるのは当然として、中でも子供達にひもじい思いをさせたくない、という親心からアバちゃんになった人達が多かったようです。その当時、遠くは旧立川町清川や旧朝日村などの遠くに出かけ、農村部の人たちが仕事に出かける前に商売をしなければなりませんでした。アバちゃんの殆どが昼前後には自宅に戻り、午後は田畑の仕事、夕方からは港での競りと、寝る暇がなかった生活で、体力を資本に玄関先で商売をしていました。

 アバちゃんの鮮魚行商は地域によっては独特の呼び名があり、それぞれが歴史を重ねてきた地方文化の一つでもあります。
 例えば香川県高松市では「いただきさん」、和歌山県田辺市では「引き売りさん」などと地域によって独特の呼び名があります。
 藩政時代に始まった庄内のアバちゃんは、伝統と呼称の語感では全国の同業者に後れをとりません。

 アバちゃんの資本は、何は無くても健康と体力。自分の体重以上に重い鮮魚品を背負い、両手にも重い荷物を持って列車に乗って街まで行きました。全盛期にはアバちゃんの人数は800人以上に膨れ上がり、人の重さと荷物の重さで列車に影響を及ぼすほどの重量で、後に荷物の重さは30キロまでと規制されるほどの賑わいでありました。
 羽越本線が全線開通したのが1923年で、その後アバちゃん専用列車が運用される様になりました。鼠ヶ関から鶴岡駅までは商いで鶴岡に来るアバちゃんが風物詩にまでなっていました。今は閉鎖になってしまいましたが、当時鶴岡駅前に田川地方行商共同組合があり、アバちゃん達はそこを拠点に行商に精をだしました。お得意様を檀家と呼び親戚づきあいまでして、行商だけでなくお嫁さんやお婿さんなどの世話まで行っていたと言います。

 食べる物がない時代、藩主から小さい子供まで空腹を満たしてきたのが、アバちゃん達の商いでした。アバちゃんとは方言で、「母親」のことを意味しています。一時は前にも述べた様にアバちゃん専用列車が鼠ヶ関から酒田駅間を走るほど沢山のアバちゃんがいて、目的は一つ、個々に背負ってきた魚を、檀家さんに売り歩く事です。魚を売るには食べ方を教えないと売れない。魚の味付けや保存方法までしっかり檀家さんに伝えながら、浜の味を文化の源にしました。
 庄内浜の特徴は、色んな地形から暖流域と寒流域双方の様々な魚介類が生育できる漁場であり、多品種の魚の水揚げがあります。その為アバちゃん達にとって漁協で夕方から行われる競りは真剣勝負でした。いかに檀家の皆さんにいい魚を食べて頂くか、毎日気が休まる日はありませんでした。1816年頃から2010年までアバちゃん達は休む暇もなく商いに精を出して庄内の皆さんに美味しいお魚を食べさせてくれた。戦後の混乱期、重い荷を背負って遠い距離をひたすら歩き、リヤカーを引いた。自分達の為でもあり、庄内藩の人々の思いを語り継いで来た人達なのです。


写真出典:はまべの味

 

庄内浜文化伝道師協会
副会長 相田 満春