山形県 最後の遠洋漁業船 正徳丸
昨年、山形県最後の遠洋漁業船“正徳丸(しょうとくまる)”が引退しました。
正徳丸は、引退までの近年10年間を専業中型イカ釣り船(船凍結)として操業しました。
船頭は、鶴岡市小波渡の佐藤長悦郎さん。
50年以上に渡る操業の歴史と漁業への願いについて伺いました。
佐藤さんが漁師となって独り立ちした昭和40年代初めごろには、山形県にも遠洋によるイカ釣り専業船が3~4隻、兼業船が32隻ほどもあり、1,000人以上が漁業者として操業していたと言います。
佐藤さんは、ロシア沖の遠洋サケマス漁を本業に、イカ釣りを兼業としていました。
3月1日にサケマスが解禁になると20日~1か月ほどの航海へ。
船が満積になると帰港し、荷をおろし、整備をして、また海へと向かい、5月末までがサケマス漁のシーズンでした。
そこから休む間もなく、6月からイカ釣り漁に突入。
石川県~北海道までイカ釣り船が大船団を組み、互いに情報を共有しながら、北海道や大和堆(やまとたい)でイカ漁に励んだと言います。
「おかげで今でもいろんな県に友達や仲間がいるよ。」と教えてくださいました。
その当時は、10日も操業すると船は満積となったそうですが、現在は40~60日、しかも24時間操業して、やっと…というほどの漁獲量だったようです。
また、遠洋イカ釣り船は船上で漁獲したイカを選別し、凍結までを行い、更に水揚げも当時は人の手によるものだったので、1隻の船に15名ほどの従業員が乗っていたんだとか。
イカ釣り漁は6月から12月まで続き、岡(おか)で過ごすのは1年のうち、1月と2月だけ。
「子どもの学校行事などには1度も行けなかった。」と、語られました。
しかし、昭和48年のオイルショックを境に風向きが変わり始め、同52年のロシア200海里設定が更に追い打ちをかけ、漁業船の数は減少していったと言います。
また、60年代に入ると船も機械化が進み、多くの人手がいった遠洋イカ釣り船も12、3人で操業ができるようになりました。
その後、200海里内のトン数制限なども加わり、サケマス漁を辞め、平成24年からは専業としてイカ釣りに専念することとなりました。
この度、引退した正徳丸には、もう跡を継ぐ船頭はいません。
元々、佐藤さんの家系は先祖代々江戸時代からの漁師の家系で、江戸の頃は北海道で盛んだったニシン漁を行っていたようです。
慶応元年に、龍神を祀る神社として古くから海の人たちの信仰を集めてきた“善宝寺”の住職の書で「青松丸」と船の名が書かれた掛け軸を見せていただきました。
平成30年の県のデータによると、5年前の時点で漁業就業者数は368名とされています。
佐藤さんは、どんどんと衰退していく水産業の行く末を心配しています。
「漁師も1人前になるためには、時間がかかる。仕事や漁具を覚えるのに3年、それに加えて季節と魚種と漁場を覚え、独り立ちするのに10年はかかる。今、技術を持った人がどんどん辞めていくことは、水産業にとって大損失だ。獲らなければ、資源量は回復する。しかし、回復した時には、もう獲れる(技術を持った)人がいない。」と嘆いています。
佐藤さんが船頭になった昭和42年頃には、
「赤道に近い太平洋でも水温は28~29℃くらいだったんだけどな。」
「平成23年頃から(北緯)40度より南にサケマスがいなくなった。その頃から温暖化は始まっていたんだな。」と、50数年もの漁師という経験を振り返り、事細かに記憶しておられる、その言葉の端々から、水産資源の減少や温暖化は否応なく、漁師の生活を脅かしていることを感じました。
最後に、皆さんはイカ釣り船の先頭に笹竹が立てられる様子を見たことがあるでしょうか。
それが不思議だったので、その意味について伺いました。
「笹は神様が寄る所で神聖なものだから、豊漁と航海の安全を祈願したものだろや。
真竹ではダメで、笹竹でねばダメだぞ。
イカ釣り船でねぐでも、新造船の時は何本も建でられでる。台湾も建ででだぞ。」
と、教えていただきました。
そっか、七夕の笹と同じか!と理解しました。
既に正徳丸はありません。
また、新たな船が笹竹に大漁旗をはためかせ、大海原へと出港していく、そんな明るい水産業の未来を願わずにはいられません。